先生は言った。
「なるほど、その彼は『選ばない』ことを選んでいるんですね。」
半年ぶりに先生のドーナツ屋に行った。もしかしたら、もう先生はいないかも、と思ったけれど、先生はやっぱりそこにいた。
最初にここで会った時のように、白いエプロン姿で。
「元気にしていましたか?アヤネさん。」
「まあ、元気と言えば元気ともいえるし・・・。
なんというか、またちょっと自己嫌悪なんです。
せっかく新しい年を迎えたっていうのに、どうもまた去年までのグダグダした感
じのまんまなんですよ。」
「グダグダした感じ、とは、具体的にはどのような『感じ』なのですか?」
「うーん、いろいろあるけど・・、一番はあれかなあ・・・。」
そして、わたしはおもむろに、「奴」のことを先生に話しはじめた。
グダグダな「彼」
わたしには、まさに「なんとなく」つきあっている人がいる。そもそもつきあっているのか、そうでないのかはっきりしないまま、早数年。
確かに一緒にいるときは、それなりに楽しかったりもする。
というより、変に気構えなくていいせいか一緒にいてもとにかくラク。
けれど、月日が経つにつれ、そのラクさにだんだんとイライラするようになってきた。
正直、奴のことを本当に好きなのか、それともただの惰性なのか、最近は自分でもよくわからない。こんな中途半端に、わたしはまたイライラしてしまう。
「さっさと別れた方がいいですよね、たぶん。
なんて、半年くらいこう言い続けてるような・・・。
でもいざとなると、なんか踏み切れないんです。
さっさと見切って、新しい出会い探そうって何度も思うんだけどなあ・・。」
「ほお、それはどうしてでしょうねえ。」
先生はシュガーグレイズたっぷりのドーナツをケースにとりわける手を止め、そう尋ねた。
「言い出しずらいんです。
一度、別れようって話を真剣にしたことあって。でもそのとき、奴、これから捨てられる犬みたいな目で私を見るんです。その目を見てたら、それ以上言い出せなく。あれ以来、別れようって思うたびに、あの目が浮かんできて、それがなんだか、私を責めるみたいで・・・。」

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「ずっとモヤモヤしてるんです。このままはっきりしないのは嫌だし、かといって・・・。」
「その人を傷つけたくない。」
「まあ、そうです。でもそれって、ただ自分がいい人でいたいだけなのかもって、そんな風にも思うんです。結局、自分を守りたいだけなのかも・・・。」
「それもあるかもしれませんね。でも、その背後には、他にも何かあるかもしれませんよ。
ところで。その方はアヤネさんから見て、どんな人なんですか?」
「自称作家」は洗面台を磨く
「うーん、ちょっと頼りない人なんです。マトモな仕事もしていないし。自称作家ですよ。今どき、作家なんて言う時点で時代遅れとか言う以前にどうかと思いますけど。」
「でもアヤネさんはその人ととりあえずはおつきあいしているわけですよね。」
「まあ、そうですけど・・・。
「で、その方はどんな文章をお書きになっているんですか?」
「実を言えば・・・、わたし、彼が書いた文章って一度もまともに見たことないんです。
考えてばかりいないでとりあえずブログでも書けば、って言うんですけど、あんなのただの時間の無駄だって。単に自己顕示欲を発散しているだけだって言うばかりで。そんなんじゃなく自分はもっと壮大なファンタジー小説家書くんだって。
でもそんな風に言いながら実際やってることと言えば、自分ちの洗面台磨くことですよ!」
「ほう、お掃除ですね。それはおもしろい。」
「おもしろくなんてないですよ!30過ぎた男がマトモに仕事もしないで、日がな一日嬉々として自分ちの洗面台を磨いてるだなんて。」
「まあまあ。しかし、彼の場合、だらしないというよりもむしろ自分が心から楽しめることにもっと自覚的になればいいような気がしますよ。」

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「つまりね、その彼の場合、どうせ何かを書こうと思うのなら、壮大なファンタジー小説を書くよりも、洗面台をピカピカにする方法なんていうささやかなコラムでも書いた方が、彼の良さが活かせるかもしれませんね。
推察するに、『大作家になる』という漠然としたイメージに囚われているが故に、一行すら書けないのではないでしょうか。」
「そうかもしれません。ただ、自分は本気にさえなれば、何だって書けるって、偉そうにいってますけど。」
「なるほど、その彼は『選ばない』ことを選んでいるんですね。」
「どういうことですか?」
(つづく)