先生は言った。
「なるほど、その彼は『選ばない』ことを選んでいるんですね。」
「どういうことですか、先生?」
先生は、湯気の立ったコーヒーを一口すすってから、言葉を続けた。
「わたしにはね、自称作家の彼は『書く』ということを無自覚に『選択してない』、つまり、書かないでいることを無意識に選択しているように見えるんですよ。」
「そんなことってあります?だって、会うとしょっちゅう『書かなきゃ』ってわたしに言ってますよ。それって、実際はともかく、『書こう』って自分で選択しているってことじゃないんですか?」
「それでも、彼氏さんは口ではそう言っているだけで、実際のところは一行も何か書いてはいないんですよね。それで洗面台磨きをしている、と。」
「そうです。でも、この場合、選ばないメリットってあります?そうは言っても、自分がしたいと思っていることをやらないでいることのメリットってなんかありますか?わたしなんかだと、したいことがあってもやらないでいると、めちゃくちゃ自己嫌悪になりますけど・・・。例えばダイエットとか。」
無意識のメリットとは?
「何かを選ばないでいるとことには、何か、その人にも気がつかない無意識のメリットがあるように思いませんか?」
「無意識のメリット?」
「そうです。わたしが思うに、それは未来の可能性を持っていられるかどうかに関わっているのではないかと思うんですよ。
つまりね、敢えて『書く』行為を選ばないことで、自分の未知なる可能性はそのまま担保できるんです。」
「そう言われれば確かに・・・。」
「書くことを選択しないことで、彼の『壮大なファンタジー小説を書く大作家になる』という可能性は手つかずのまま残ります。彼はその可能性を残しておきたいのかもしれません。
いざ、現実に書き出してしまうと、どうしたって自分の思い通りに『書けない』現実の自分にぶつかります。彼はそのことを無意識に恐れ、避けているのかもしれませんね。」
「でも、そんなことしてたらいつまでも作家なんてなれずに、おじいちゃんになっちゃうじゃないですか!いつかいつかって言い続けて何もしないでいたら・・。」
「でもね、あなたもですよ、アヤネさん。」
「わたしも、ですか!?」
「あなたも、今の彼との関係に不満があっても、なかなか前へ進めない。それはいわば、敢えて何かを積極的に選択していないといえませんか? 彼に対して悪ものになりたくないという以上に、アヤネさんにとって選択しないことのメリットがありませんか?」
わたしはしばらくの間、考え込んだ。
彼にいら立ちを感じながらもダラダラと関係をつづけているそのメリットって?
「では、これは次への宿題にしましょう。
一つ付け加えるとね、私たちはあることに対し、大いに不満に抱きつつも、その中に居続けることがよくあります。そんな時、私たちは不満の底に隠れたメリットを受け取ることを選択しているんですよ。
アヤネさんにとって、それはなんでしょうね。」
先生はそういって、たっぷりのシュガーグレイズにくるまれたドーナツをお皿にのせた。
「食べますか?」
わたしは、そろそろとお皿をうけとった。じわり広がる自己嫌悪を身体全体で感じながら。
・・・本日のドーナツ・・・
「微妙に不満足な、いつものシュガードーナツ」
何となくイマイチ。けれど文句を言いながらも、食べてしまう。
そして後悔。
「ああ、今年こそダイエット成功させるって決めた・・・。」
本当に欲しいのか、わからないのに、つい手が出るのは惰性なのかなんなのか・・・。