ドーナツ店を舞台にしたブログを書いていてなんですが、私はふだんめったにドーナツを食べません。
ここ数年振り返っても、ドーナツを口にしたのは、片手で数えるほど。
といって、ドーナツが嫌いかというわけではないんです。というか、むしろ「とっても好き」なのです。
(なので、思いがけずドーナツをおやつに頂ける機会なんかがあると、ついうれしくなってしまいます)
実際には買わなくても、、真ん中に穴のあいているというある意味謎の形をしたまるいドーナツが
並んでいるドーナツ屋さんのショーウィンドウは、ただ眺めるだけでも楽しくなってきます。
そんならいっそ1個か2個、ドーナツ買ってそのままぱくり、頬張りゃいいのに・・・。
そう自分でつっこんでみたりはするものの、結局は何も買わず、ショーウィンドウを横目に立ち去るのです。
やれ、カロリーだ、糖化だと、日々嫌でも蓄積される無数の情報。
頭の中のデータベースが膨れ上がるにつれ、いつの間にか、ドーナツはわたしから遠ざざかっていきました。
まったく、「大人」なんてやつは・・・
「大人」になるほど、食べ物を「概念」として味わうようになってきた、そんな風に感じることが時々あります。
子どもの頃は、目の前のものを、ただ直接的に「おいしい」(あるいは「おいしくない」)と感じ、「食べること」を素直に体験していたように思います。
「これがお肌にいいから」とか、「体脂肪を下げてくれるから」なんていう、「損得」や「こだわり」といった思念を消費することではなく。
まったく、「大人」というのは面倒なものです。
そんなわけで、ふだんはすっかりドーナツと疎遠の「大人」の私ですが、わざわざ遠く足を運んででも進んで食べたいドーナツが、この世にほんのわずかですが存在します。
それが六曜社のドーナツです。
その六曜社をつい先日、何年かぶりに訪れました。
雪の舞う、寒い午後でした。
六曜社・地下店、記憶の入り口
六曜社は、京都・河原町三条の交差点を数歩下がったところにある、老舗の喫茶店。
もはや私ごときが云々いうまでもない自家焙煎珈琲の名店です。
これまで何度か足を運んでいますが、行くのはたいてい地下店。
今回も、地下へ続く狭い階段をゆっくりと下りて行きます。
中に入るとまっすぐカウンター席に。趣のある店内も、カウンター越しに黙々とコーヒーを淹れるご主人も、その傍らでキビキビと働く奥様も、以前と変わりない風景がそこにありました。

にしても、この撮り方は・・雰囲気だけでも伝わればですが・・
初めて六曜社を訪れたのは、私が京都で高校の教師をしていた時、同僚の先生方に連れられてやって来ました。
もう何年も前の話です。
当時、私は採用されて1年目か2年目の新米の社会科教師。
あの頃の自分を振り返ると、今でも「うおおおー」と叫んで身をよじるほど恥ずかしくなります。
本当に未熟な教師で、幼い人間でした(まあ、今でもですが・・・)。
「永遠のピーターパン」、新米教師に
私は子供の頃からずっと、大人になんてなりたくないと思い続けていました。
「大人になったら人生終わり」と、大げさですが、10代の自分は本気でそう考え、
「大人」と言われる年に日に日に自分が近づくことに、見えない恐怖と抵抗を感じていました。
そんな思いは20代になってもくすぶります。
「社会人」になるとは、まさにその忌み嫌う「大人」になること。
まさに「永遠のピーターパン」(の出来そこない・・・)。
そんなわけで、「社会人」として働く、なんていうのは、私にとってまったくの想像の範囲外。
運良く京都で教員に採用されたものの、実際自分が教壇に立ち、生徒たちの前で授業をするなんて、最初の授業に向かうその瞬間まで、現実に自分のことと感じることすらできませんでした。
にも、関わらず、です。
経験値ゼロの新米のくせに、なぜか理想だけは無駄に大きく膨らんでいたのです。
「これまでにない斬新な授業をするんだ!」、と。
とはいえ、エベレストとマリファナ海溝ほどに隔ったった理想の自分と現実の自分。
当然のことながら、その狭間で四苦八苦する羽目になった結果、私は採用2ヶ月半で、
全く授業に行かれなくなるという自体に陥ります。
結局は、保健室登校の日々を経て、採用早々3ヶ月間休職することに。
思うにあの頃、自分の今の「器」の大きさがわからないのに、自分ではその「器」に無尽蔵に水が入ると思っていたのかもしれません。

地下に向かう階段に貼ってあるポスター。ポップでかわいい
「まあ、ここ来たらドーナツやな。」
京大出身の才媛、F先生は腰を下ろすなり、そう言うとブレンドとコーヒーを2つづつ注文した。
カウンターごしにはその向こうでエプロンをつけたご主人が、滑らかな手つきで、
一杯づつコーヒーを立ててゆく。
カップに注がれたコーヒーは、すっと私とF先生の前へ。ほどなくドーナツがやってくる。
お皿のうえで、それはほんのり温かい。
「吾郷さん、ま、気負わんと、まずは今の自分ができることからやってみようや。」
F先生は静かに言った。
小さくうなづき、私はドーナツを頬張る。そしてコーヒーを一口。
その味は、優しく、わずかにほろ苦い。
それからF先生は、他の先生方に向き直り、わたしは黙って弾む先生方の話に耳を傾けた。
気がつけば、あれから何年も歳月が流れてしまいました。
事実と信じている記憶も、時間とともに自分の都合のいいように加工された、ただの物語(フィクション)かもしれません。
それでも、こうして六曜社地下のカウンター席に腰を下ろすと、やっぱりあの時のことがふっとどこからか立ち上ってくるのです。
つまづいてしまったことで改めて気づいた同僚の先生方のご心配と気遣い。
もう一度やり直すチャンスを与えてくれた人々。
そのおかげで、私はその後何年も教師を続け、人生の中でも最も充実した時間を、過ごすことができました。
けれど、その感謝の気持ちを伝えきれないままに、その後私は教職を、そして京都を去ります。
「もっと存分に、とことんまでやれたのではないか・・」
複雑で、どこか苦い、軽い後悔に似た思いが、今も心の奥にくすぶります。
同じでいて、同じでないもの
「はい、コーヒーとドーナツ。」
そんなことを考えていると、カウンターからコーヒー&ドーナツがすっと現れてきました。
コーヒーは、上品な大きさのカップに注がれ、これまた品の良いお皿にのったドーナツはほんのり温かい。

The best friends
淹れたてのコーヒーを軽くすすり、それからドーナツを一口。
サクッと素朴な食感が口の中でほどけ、その後じわじわと広がるコクのある黄金色の甘さ。
そのあとでまたコーヒーを一口。
お、おいしいなり・・・、と、まさに涙が出るほど絶妙なコンビネーション。
初めて口にした時と同じ感動。
その瞬間、ふと私のなかにすでに卒業したはずの思いがふっと立ち上ってきました。
「もし私が、あのまま教師を続け、この街で暮らしていたとしたら・・・。」
もしそうであったらどうだったのだろう。。。。
この街と教師という仕事にどっぷりと腰をおろし、ひょっとして誰かと家庭を持ち、子どもを育てながら、仕事と家庭と休む間も無く暮らしてたろうか。あるいは、市内のどこかにマンションでも買って、悠々した独身教師生活を満喫していたろうか?逆に、生活の安定とは引き換えに、挑戦しなかったことへの不満を、どこかで抱えたまま悶々と暮らしていたろうか・・・。
いずれにせよ、それはどれも、今では想像の世界だけに存在するもの。
もう1人の自分。あり得たかもしれない可能性。
選べたはずの道、選ばなかった未来の自分。
思い出と後悔と、もう一人の「わたし」という物語(ファンタジー)。
あり得たようで、あり得なかったこと。
「大人」の味は?
思うに、自分が昔、なぜあんなにも大人になるのが嫌だったのか、今では少しわかる気がします。
もしかするとそれは、「可能性」を手放すことへの恐れだったのかもしれません。
どこまでも膨らむ未来の自分像、なろうと思えば何にでもなれる、とぼんやりとした夢想に遊ぶことを許された子供時代。
けれどその可能性は、時を歩むにつれ、否が応でも一つづつ、手放さざるを得なくなる。
その度に芽吹くことのなかった可能性の種が、1つ2つ身体の中に染み込んで、
やがて「わたし」の一部になってゆく・・・。
同時に、もう1つ気づいたことがあります。
「可能性」は、ただ手放すだけでなく、芽吹くことなかった種も肥やしに、新たに自分でつくってゆけるのだと。
だからね、大人になるのを怖がらなくてもいいんだよ、と。
改めて店を見回すと「いい年をした大人」たちが、皆さんそれぞれの風合いで、ほろ苦いコーヒーとともに、ドーナツを「ぱくり」。
カウンター越しで、ご主人はやはりコーヒーを淹れ、その傍ではキビキビ働く奥様の姿。
シュシュとお湯の沸く音。変わらず時を刻み続ける店内。
同じに見えて、同じでないもの。
私ももう一口、ドーナツをぱくり。
「わたし」という物語を頬張る。

おいしいでございます・・・
【(六曜社風に)本日のおやつ】
この日もやっぱりこれで、、
マイルドブレンドコーヒー&ドーナツ
珈琲は生豆の選別からこだわった自家焙煎。
六曜社・地下店 京都市中京区河原町三条下ル東側 B1F
ちなみに、六曜社のこんな記事も発見しました。店内の空気感が伝わるようです。